1
あの年、三月の終わり、年度初めが間もなくという頃、しばらく空室だった私のマンションの隣室に、三人家族が引っ越してきた。父と母と、息子の少年だった。
父母はともに大手の銀行員であるということだった。引越前の地名を聞けば、まあ栄転の類だろう。私の住むマンションは、エクゼクティブ向け、といわないまでも、まあそこそこのクラスの、買取のマンションだ。ある程度成功したサラリーマン家庭などが、末永い住処として購入するようなところだ。独身の私は、極めて異例。ただ私は、妻に先立たれた中年男、を演じ続けている。不自然な印象を持たれるようなことは、極力避けたい。私は普通の人間ではなかったからだ。
夫婦の勝ち組ぶったいささか高慢な態度が不快だったので、私は自身の大学講師や著述の仕事について触れた。黒崎という名を、二人は知っていたとみえ、とたんに態度が変わったのがまた不快だった。
そもそも、私の関心事はこんな矮小な大人二人にはさらさらなく、彼らのやや後ろに、いかにも居心地悪そうに、うつむきがちに立っている少年の方だった。
太ってはいないが全体にからだの線は柔らかで、頬はふっくらとして、トレーナーから露出した手首から先、デニムの半ズボンからのぞく足の肌は抜けるように白い。頬はほんのりと朱に染まっていた。髪の色素もやや薄いようで、さらさらした長めの髪は、茶色みがかって、薄暗いマンションの通路でも輝きまた透けるようだ。
しばらくぶりに訪れた大きなチャンスだ、と私は小躍りするほどに喜んだものだ。何しろこれから当分は、彼は隣に住み続け、私からのがれられない。
私の特殊性、普通でないところの、大きな一つが、少年愛者であるということだ。聞けば新年度に四年生になるということだから、それにしてはやや大柄ではあるが、この少年は、まだ精通も発毛もあるまい。そんな頃合いから、性の手ほどきをしてやれるチャンスなど、そうはない。追えば追うほど逃げていくのがチャンスで、だからといって追うのをやめてはいけないというのが、運をつかむための大原則だと私は思うが、このように動かずして降って湧いたようなチャンスを、私は何が何でも逃すわけにいかなかった。少年の外見、体格、そして彼を覆う、この時点では理解不能な重い翳りが、私を魅了した。
親二人に無理に押し出され、しゃがんで目の高さを合わせ笑みを送る私の視線をかわす彼は、そうとうな人見知りと思われた。
私は人好きのする風貌はしていない(体格は人並みで、左足に障害のある私だが、明らかな年上でも頭から私に上から目線で接する人間はまずいない)が、かといってさほど警戒されるほど恐ろしげな外見でもない。外見だけなら、だが。この子はたぶん、初対面の大人なら誰にでもこうなのだろう、とこの時点では考えた。
私はわざわざ、そんな彼の頭を、親愛をこめて撫でてやった。彼は一瞬びくっとしただけで、私のその行為を受け入れた。手を差しのべると、彼は自分の意思以外の何かに動かされるように、私の手を握ってくれたので、私はその小さな手を強く握り返し、ますますにっこりと微笑む。作為ではない。私は本当に喜んでいた。これから隣人となるこの少年とのファーストコンタクトは、まずまずの感触と言ってよかった。
少年の名は幸一というそうだ。私は、
「幸一君か。よろしくね。これからはお隣同士だから、いつでも遊びにおいで」
と手をゆるめながら語りかけたが、彼は視線を下ろし自分の手を見つめて、私の誘いには何ともこたえなかった。
†
あの日私はマンションの前の、猫の額のような狭い敷地の公園の花壇の前にしゃがんでいる幸一を見かけたのだ。
まだ午後三時にもなっていない。さて、学校はどうしたのか、と寸時考え、ああ、今日は土曜日だった、と気づいた。私は大学の非常勤講師をしているが、週三回だけで、あとは自宅で著述の仕事をしていることが多い。一般的なサラリーマンほどには、曜日の感覚がない。
最初の挨拶以降、なかなか彼に接近するチャンスはなかった。彼は夕方までどこかで遊んでいるか習い事でもしているのか、早くは帰ってこないし、帰宅したらしたで家から出てこない。親のいない時間は長いようだったが、まさかこちらから「幸一君、遊びましょう」などと言って呼び鈴を押すわけにもいかない。たまに近所で見かけても、どうも彼は私を避けているらしかった。
これは千載一遇のチャンス。もちろん隣同士であるからには、いつか訪れるべきチャンスで、遅すぎたくらいだった。私は衝動を抑えながら、まず遠くから彼を観察した。
彼は一人でぽつんと、ただしゃがんで土をいじっているだけだ。遊びの約束がふいになったかして、暇なのだろうか。
それにしても寂しげな背中だった。せつないまでに誰かにかまってほしくて仕方ないように見えた。そして私は少年のそういう姿が好きだった。私はゆっくりと、静かに、杖は浮かせて、幸一に近づいていく。
春の陽光は急速に力を失いつつあり、半ズボンから出た幸一のむき出しの足は寒そうだった。きめ細かな白い肌がきゅっと引きしまり、体温を逃がすまいとしながら、誰かに、誰かにさすられるのを待っている。
「幸一君?」と私が声かけたのと、幸一がもう移動しようとしたのかふっと腰を浮かしたのがほぼ同時。彼は大げさ過ぎるほど、それこそ飛び上がるようにして立ち、ふり向き、下から上に私に怯えの混じった視線を走らせると、口をつぐんだまま、うつむいた。彼とのこの距離感は久しぶりだ。彼は驚愕と怯えから口もきけないようだった。
私が怪物のように見えたわけではあるまい(だとすれば幸一は歳のわりにカンがよすぎる)、やはり極度の人見知りなのだろう。あまり誰かに声をかけられることにも慣れていない。だからどうしていいかわからない。
私から見れば単純に外見だけを見ても十分に愛らしく、さびしげな瞳や素振りが魅力的だとしても、一般的にぬいぐるみやペットと同列に男児がかわいいのは低学年くらいまでだ。今、新四年生、たぶん九歳の彼は、多くの大人から見て単に愛想のない凡庸で目立たない子供だろう。だから私のようにあえて接近してくる大人の存在に、幸一は戸惑うのだ。
「幸一君。こんにちは」
私は腰をかがめ、彼のおどおどした伏し目のあたりに目の高さを合わせ、笑顔を作り、挨拶を繰り返した。これは親愛と認知のサインだ。特に幼い子ほど、こうした何気ない振る舞いが大きな意味を持つ。毎日ほど顔を合わせる親には必要なくても、赤の他人から親交を深めていくには、最初が肝心。どれだけ強く、相手の心をこじ開けて入っていけるか。慎重な様子見も大事だが、こんなチャンスの時は、最大限の強引さでもって、私は彼のこころをとらえてみたい。
「あ、こんにちは……」
幸一はうつむき加減の上目遣いで、もじもじしながらやっとそれだけ言った。緊張や警戒心にもほどがある。彼は自意識過剰なのではないか、と一瞬、私は思ったが、どうも違う。彼には年相応の少年の愛嬌や人懐こさを表に出せないだけの、何か問題がある。原因は本人の生得的なものか、あるいはあのいろいろと高慢さが鼻につくわりに愚かな母親など、近しい大人が原因かは、まだわからない。彼は疑わしけに私をちらちら見る。
「幸一君、お隣だから、いつでも遊びにおいでって言ったのに、ちっとも来ないよね。おじさんさびしいな」
そう言うと私は、思い切って、拒絶を覚悟で手を伸ばしてそっと幸一の頭をなでた。幸一は一瞬からだをビクリとさせたけれど、硬直して動けないようだった。
「……あの、でも、おじさん、お仕事忙しい……でしょ?」
幸一は、ようやくぼそぼそとそれだけ言った。
「あれ、言わなかったっけ? おじさんは今、大学には週三日しか行ってないんだ。後のお仕事は家で、パソコンで本を書いたり、勉強したりだよ。けっこう家にいるんだ」
「でも……家でも、お仕事……」
何とかして話を切ろうとしている。だが逃がすものか。私は幸一の頭に手を添えたまま、話を続ける。
「いつでもいいんだよ。夜中にお仕事することもある。夕方はね、けっこう暇だ。こうして、散歩したりしている。幸一君も暇そうじゃないか。ずっとこんな所で一人でさ」
幸一は戸惑い、うつむいたりまた上目遣いに私をちらちら見たり。なぜ自分に私がこうも関心を持つのか、理解できないだろうな。凡庸な目立たない自分に、なぜ、と。
「よかったら今からうちにおいでよ。晩ご飯までに帰れば、大丈夫だろ?」
「え……あの……」
幸一は一瞬目を大きく見開くと、またすぐうつむいて口をつぐんでしまった。しかし強いノーのサインはない。私は脈ありと見た。彼は本当は誰かの関心を引きたいのだ。優しくされたり、かまってほしいのだ。私はそう思うことにした。一つの賭けだが、私は幸一の手をそっと握った。拒絶はない。その手を引いた。幸一は私についてくる判断をした。いや、判断をしないままに、ただ流されたか。私についてきた。
私は握った手を離さず、幸一をマンションのエレベーターに導いた。彼はずっと無言で、うつむいたままだった。
「学校の勉強は、何が好き?」などありがちな質問をしてみるが、やはり答えはない。答えられない自分に焦りを覚えるのか、手汗はにじみ、私の手を握る握力は増す。
「全部嫌いなのかな?」などとからかい節に言ってやる。幸一は恥ずかしそうにうつむいて、さらに私の手をぎゅっと握って、それが強すぎると気づいたのか、すっと力を抜く。私はその手をそっと握り返す。シャイで気弱な仕草がたまらない。私は彼をからかいたくなってしまう。
「ごめんごめん。本当は全部得意なんだろう? 幸一君かしこそうだものな」などと追い打ちをかけてやると、幸一は慌てたように首を強く振る。色白の顔が朱に染まっていた。私は思わず声を立てて笑い、「幸一君かわいいなあ」と、いささか性急かもしれないが、本音である言葉を漏らした。そんなことを言われて素直に喜びを表す歳でもない。幸一はますます赤面しうつむき、また私の手を握る小さな手の握力がぐっと増した。
さて、私は幸一を無事に部屋に招き入れることができた。おじゃまします、という彼の手を引き、ろくに靴を脱ぐ間も与えずリビングに向かう私は、ドアが閉じた時点から嵩ぶりを抑えきれず性急に強引になっていたと思われる。
私の部屋のつくりは隣の幸一家と同じ構造の鏡合わせのはずだった。玄関からの廊下に沿って、右側に部屋が三つ。玄関からデスクとノートPCのある仕事部屋(実際はリビングの座卓のデスクトップを使う場合が多かった)、私の寝室、そして今日の幸一に見せるには早く、いずれは導き入れたい特殊な部屋、と続く。
廊下を挟んで、玄関から左手はトイレ、風呂、その隣が和室で、物置のようになって整理しきれない本が山積みになっている。
廊下を抜けて、ベランダ側は十畳ばかりのリビングダイニングで、座卓にデスクトップパソコン、独り暮らしには贅沢な37インチ液晶テレビ、反対側の壁は天上まで本棚で、仕事に関わる専門書から、青年向け、少年向けコミックまである。これは少年のための餌であると同時に、私の仕事の資料でもある。現代文化論、アニメーションやコミックは私の研究の中心テーマの一つだ。それから部屋の中央には私の好みでテーブルではなくこたつ。
イスとテーブルより座布団と座卓を好む私は、このリビングダイニングで寝る以外の大概の時間を過ごす。仕事も座卓のパソコンに向かうか、こたつで本を読むなり書きものをするなり、だ。
幸一はきょろきょろとあちこちを見回していた。とくに興味を惹いたのは壁一杯の書架らしかった。本に興味がなくても、一般的な家庭の子供から見れば、なかなかインパクトのある光景ではあるだろう。ともかく、緊張のしすぎから、少しは抜けだしてくれたかな。私は横からちょいと彼の頭をつついてやる。びくっとした必要以上の反応。こういうスキンシップは苦手なタイプかな。しかし私は、押す方の選択をする。幼時にふさわしいだけの身体的精神的な保護者との関わりを欠いた場合、例えば中学生くらいになっても、異常な甘えん坊であったりする場合と、異常に強い警戒心でもって、庇護者たる大人や年長のものと距離をとろうとするような、まあ、強く言えば「歪み」を抱えてしまう場合がある。幸一は後者ではないかと考えたわけだ。であれば、私は彼の、本当は欲しくてたまらない庇護者となることを目指す。「あの人になら甘えてもいい」というような存在を目指すのだ。
「珍しそうに見るものなんてないだろ? 幸一君の所と、ほとんどつくりは同じだろうし」
私は笑いながらそう言って、幸一の頭の後ろから手を回し、頬に手を触れ、軽く私の方に引き寄せてやる。ふっくりと柔らかな頬だ。幸一は私の意外な挙動に驚き、よろめいて私に寄りかかるようにして、肩に一瞬手を触れるも、いけないことをしたかのようにその手を離してすっと姿勢を立て直した。私の方に何か申しわけなさそうにも見える視線を送ってくる。
「でも、本が一杯……うちにはこんなの、ないです」
「ほとんどお仕事の本で、おもしろくはないよ」
私は笑いながら、幸一の後ろに回って、両肩に手を添える。逃がさない。強引さで、彼の閉ざされたこころに分け入ってみたい。今日の私はどうも性急過ぎる気がするが、もし躓いても、「隣人」である彼との関係は、十分に修復可能だ。彼は拒絶のサインを送っては来ない。あきらめ? あるいは少しは、私の「好意」に反応してくれているのか。
「……でも、マンガも……」
ああ、どうやら興味を持ってくれたらしいな。
「ああ、好きなんだよ。幸一君みたいな子供が好きそうなやつも。幸一君はマンガ好き?」
幸一はうなずいた。いいね。切り口が一つできた。
「幸一君が好きなのがあれば、貸してあげるし、まあここで好きなだけ読んでかまわないよ」
幸一の、ちらっと私を見て、すぐに逸らしてしまった視線には、期待や喜びの光が確かに読み取れた。だが戸惑いもある。なぜ、自分にこの人は、そう好意的なのか。
「でも今はちょっとね。せっかく遊びに来てくれても、一人でマンガ読まれちゃつまらないしね。後にしようか。好きなのあるかな? どんなの好きか、聞かせてくれよ」
私は幸一の肩を押し、本棚に手の届くところまで連れて行った。
コミックは中段から最下段の一部(要するに子供の手でも届く高さ)にあり、少年漫画に限っても、手塚治虫や白土三平から、現在連載進行中のヒット作品までかなりある。
「好きなのある? どれ?」
幸一が何も言わないので、私は幸一の顔に息がかかるほど寄って、肩を抱いて、ますます緊張して戸惑って赤面する幸一の反応を楽しみつつ、返事を促した。ようやく彼は、すでに十二巻で完結した、最近のヒット作を指さした。
「へえ! そうか。おじさんも好きだよ。持ってるの? 全部読んだ?」
幸一は首を振った。その仕草がやけに哀しげだった。私はわずかに胸を締めつけられるような感覚を味わう。
このようなマンションに住み、両親ともに銀行員でマンガを買う小遣いももらえないとは考えにくい。つまらない「教育熱心」さで、幸一の両親はマンガを禁じているのか? という程度が、この時点でせいぜい、私に想像できたことだ。幸一の「本当の事情」は、私などが想像できる範囲になかった。
「無いのか……じゃ、全部貸してあげるよ。それともうちで読む?」
喜ぶかと思ったが、彼はうつむくばかりだった。だが彼は本音を表に出せないだけなのだ。私の前では、もっと気持ちを素直に出していい。そう思うようになってほしい。ならせてやる。
「遠慮深いなあ。お隣同士で何も、そんなに気を遣うことないよ。これ描いてる人のマンガだと、他に……」
私はいくつかの作品を指で示し、また棚に無い作品についても触れ、幸一が未読であることを前提に、内容や魅力、作者の特色、成長や変遷について、小学生にもわかる言葉を探しながら、語った。私は人にものを教えるのが好きだ。私の言葉の嵩ぶりは、聴く者をしばしば魅了する。私が質問を放つと、訥々と単語を並べるだけのような語りながらも、幸一は好きなマンガや作家について、答え、次第に自ら言葉を探して、話すようになった。恥ずかしさ故でなく、気持ちの嵩ぶり故の頬の紅潮、泳がずしっかりと私を見る目線。私は笑顔で、相槌を打つ。一つの壁を越えたと私は思った。私が越えたのか、幸一が越えたのか。おそらくそれは両方で、かつ幸一は私が越えさせたのだ。
私は幸一を、和室にも案内した。あまり必要でなくなり、かと言って古本屋に出すには惜しい本が三方の棚にも収まりきらず山積みになっている。掃除も行き届かず埃が積もっていて、普通は人を入れない部屋だ。でも幸一は気に入ると思っていた。私が好きなだけ本をピックアップしたら、全部貸してやると言ったら、期待通り、遠慮を置き忘れて目を輝かせた幸一は、次々に読みたい本を選んだ。それらを二人で、どっさり抱えてリビングの隅に運び、積み上げた。
「意外と欲張りだなあ。幸一」
私はからかい節に、そう言って幸一の頭をちょんと突いた。さりげなく彼を初めて、呼び捨てにした。だが彼はそのことには気づかなかったようだ。
「……ごめんなさい」とうつむいてぼそぼそ声で謝る幸一。
私は幸一の正面に回り、しゃがんで、彼の柔らかな頬に手を当て、やや下から彼の顔を覗き込んで、優しげに言葉をかけた。
「いいんだよ。緊張が解けてきた証拠だ。幸一が楽しくなった方が、呼んだおじさんもうれしいに決まってるだろ?」
赤面し、ますますうつむき、私から視線をそらす幸一は、不器用ながら、それでも私の好意を受け入れようとしているように見えた。
「本はちょっとおいておこうか。何か飲む? ジュースは今、りんごジュースとコーラだな。あったかいのがよければ、紅茶淹れるか」
彼はまた、言葉での意思表示ができないようだった。
「おじさんは紅茶にしよう。幸一は紅茶嫌い?」
幸一はただ首を振る。Noのサインはこの場合どちらの意図かわかりにくい。
「正直に言いなさい。幸一はせっかくのお客さんだよ。おじさんは幸一によろこんでほしいんだから」
呼び捨てとやや強要の意思のこもった口調は、意図的なものだ。幸一は受け入れるか。幸一は「……コーラ」とぼそぼそ声でやっと答えた。私はその彼の頭を、笑顔で強く撫でた。拒絶のサインはわずかも返ってはこなかった。私のペースだ。
こたつ(もちろん今は春だから布団はかかっていない)で、紅茶を淹れる私を待つ幸一。律儀にコーラに手をつけずに。温かい紅茶を持って幸一の斜め横に座った私は、「幸一は礼儀正しいなあ。飲んでてよかったのに」と笑顔でほめてやり、乾杯のように紅茶のカップをさし出すと、彼も水滴のいっぱいついたグラスを持ち上げた。その時、初めて幸一は、私に、ほんの一瞬だが、屈託のない、素直な笑顔を見せてくれた。
「まだ時間あるよね? ゲームする? おじさんゲームもするんだ。子供みたいだろ? 二人プレイできるやつ、何かやろう。好きなゲームとか、ある?」
「うん。あのね……」
まだ部屋に入れてから一時間経っていないが、あの人見知りで、人を近寄らせない感じがぐっと薄れて、幸一は無邪気な年齢相応の少年らしい態度に変化していた。幸一が口にしたのは幸い非常にメジャーなシリーズタイトルで、うちには最新版があった。コミックと違って、この手のものは私自身が楽しむためではなく、99%、少年のための餌として置いている。ゲーム機自体もしかり。
私が「それならあるよ」と言って微笑みかけてやると、幸一の顔は嬉しさをあふれさせた愛らしいものになった。私はゲーム機のセッティング(常にテレビに接続したままにはなっていない)も彼に手伝わせた。三色コードの挿し方なども幸一はわかっておらず、今やろうとしているゲームも、たぶん初めてやるのだろう。マンガもゲームも禁止の、「教育熱心」な家庭なのだろうか。私は当たり前に幸一に同情した。
丸い大きなクッションに、私は先に座り、左半分を空けて幸一を座らせる。幸一は照れくさそうにもじもじしていたが、もはや拒絶の意思は感じられず、ただためらっているだけだ。私は手を伸ばして幸一の手首を握り、私の真横に座らせ、肩を抱き寄せてからだを密着させた。私の胸の鼓動も高まる。たぶん今の幸一とは全く別の意味で。幸一は緊張のためにだいぶ固くなっていたが、彼のからだはあたたかかった。
二人で協力プレイのできるアクションゲームだったが、幸一はまるっきりのヘタクソだった。だが失敗のくやしさを、すぐに大きく表現できるようになり、からかったり教えたりという私からのアクションも、やりやすくなった。一方で上達は早く、彼はやはりこのゲームを全くか、ほとんどやったことがないのだとわかった。
私は様子を見ながら、言葉でほめたりからかったりするだけではなく、頭を軽くはたいてやったり、ほっぺたをつついてやったりした。彼の方から私の太ももをぽんっと叩いてきた時には、しめたと思った。こころの垣根が、一段階低くなった。だが幸一は、自分のその行為にやや戸惑い、しまったという表情で私を見た。私は今こそと身構えたが、その瞬間気を散らした幸一がゲームで失敗をしたので、私は彼を言葉でからかい、抱きよせて両脇をくすぐってやった。幸一は「やめて」と言いながらも、私の太ももをまた叩いて、私の胸に顔をうずめるようにくっついてきた。私はまた鼓動の高まりを感じた。こうして少年との距離を縮める過程は、少年とのセックスそのものと同じくらい、私を嵩ぶらせ、楽しませてくれる。私は幸一を優しくきゅっと抱きよせた。幼児のように。幸一はもうからだをこわばらせたりせずに、私にされるがままだった。
†
幸一にべったりとくっついて、私は存分に「スキンシップ」を楽しんだ。もっとも他人の目があっても問題の無いレベルだ。ただ普段幸一が他の大人に見せているであろうキャラクターや、四年生という年齢からすれば、ずいぶんな甘え方に見えるし、見る人に驚きを与えるだろう。だが彼は人目があれば絶対にこんな甘え方やじゃれ方はしない。
私も夢中だったが、幸一にとっても時間の経つのは早く感じられただろう。七時を回り、
一応、「晩ご飯、食べていくか」と誘ってみたが、さすがに彼は断った。今日はこれ以上無理押しする必要はない。彼よりも両親に不審がられたら痛い。
彼は読みたいマンガや本をたくさん選んでいたわけだが、もちろん一度に持って帰れる数ではない。そしてそれは、私にも好都合だった。
「一冊だけ、持って帰りな。それ返しに来て、また借りればいい。何回も言うけど、うちで読んでもいいよ。おじさんが暇なときに、一人で目の前で本読まれてもさびしいけど、仕事してる時なら、逆に好きなだけ本を読んで、一人でゲームしてもかまわないしね」
何度でも、遊びにおいで、好きなだけ宝の山を楽しめばいい、と私は誘いをかけている。その私の親切さに、幸一は素直な笑顔で応えられるようになっていた。
幸一が「私」をどう受け止めてくれたか、少なくとも嫌われてはいないにしても、警戒心の強そうな子だから、まだ十分には自信はない。しかしそこにあるモノだけでも少年にとって十分に魅力があるのが私の城だ。それに礼儀正しい子のようだから、本を借りっぱなしなどあり得ない。彼は少なくとももう一度ここに来るのだ。貸した本は約束手形みたいなものだ。