TimeLag 番外 〜3年目の風景〜*リライト版*
「瀬川様、本日はどうも有難う御座いました。宜しければ是非、ご検討下さいませ」 「こちらこそ、お手数をかけました。前向きに検討してみます」 係員の声に軽く腰を下げて礼を告げながら、利明は不動産屋の自動ドアを出た。途端、ビュン、と痛いほどの風が頬を叩く。 その勢いに思わず軽く目を閉じ、肩を竦める。ビュンビュンと吹きすさぶ木枯らしをやり過ごして薄目を開けると、自分の呼気がフワフワと白く凝り、闇の中へと消えていく。 店内では、緊張していたようだ。首筋を軽く左右に曲げ、ポキポキと音を立てて凝りをほぐしながら、最寄の地下鉄駅へと歩き出す。 厳冬の寒気が、せっせと動かす足元から、チリチリとした痛さで這い上がってくる。 週末、金曜日の19時。昨日はバレンタインだった。寒さに身を縮めながらも、寒気の一番厳しいこの時期が一番好きだ、と利明は思う。 (お、凄い、……TVの画像みたい) 思わず車の居並ぶ幹線道路に目が釘付けになり、歩調が緩む。街には既に闇が広がり、車のヘッドライトとテールランプの暖色の帯が並んでいる。それがまるで都市の血流のごとく、ゆったりとした速度で流れていく。ブラウン管越しに見慣れた光景が目の前で繰り広げられるのは、圧巻だ。 通り沿いの店に目を移せば、ホワイトデー用のディスプレイが施されていた。たった一日で変更をしなきゃならないなんて、関係者の人も大変だな、と呑気な事を考える。 チラチラと横目でガラスの中を伺いながら、バレンタインよりはこっちのディスプレイの方が好みだ、と思う。 バレンタインには赤やピンクが多用される事が多い。派手で人目を惹くだろうし、女性に人気はあるだろう。しかし正直、見飽きる事も多い。ホワイトデーだと、店によってコンセプトが違うのがハッキリとしている。そして様々な柔らかい色が氾濫しているのが面白い。チカチカと瞬くイルミネーションも、穏やかな色をチョイスされている。 カツカツとヒールの澄んだ足音を立て、かなりの美女が大股に、利明の横を通り過ぎて行く。ふわり、と甘ったるい残り香が鼻を擽った。OLではなさそうだし、ヒルズ族とも思えない。完全に夜に染まっているタイプには見えないが、派手な雰囲気がある。近隣の店に、週末のみ出勤するタイプの女性なのかもしれなかった。 24時間眠らない街、六本木。街は夜の表情へと、ゆっくりと趣を変えて行く。 不動産屋から直線で約300m先にある、通い慣れた地下鉄駅の構内へと入る。利明は軽い、ステップを踏むような足取りで階段を駆け下りた。今夜は自宅のある武蔵小杉までは帰らない。恋人の家のある、恵比寿で途中下車をする。 今年はバレンタイン当日が、木曜日だった。 『当日にお泊りは無理でもさ、アフターバレンタインの雰囲気ぐらい、味わいたいじゃん。せめて週末には俺んちに来てよ』 これが恋人の、第一希望だった。第二希望は鍋を一緒に食べよう、と言うささやかなもの。プレゼントは、既に準備済で、手持ちのブリーフケースの中にある。 「欲しいけど買うにはちょっとな」と漏らしていた最新版のiPodtouch。 そして胸中には、もう一つのサプライズプレゼントが潜んでいた。随分以前から恋人の永木に相談されたり、強請られていたに近い、事柄である。 ホームで携帯を開け、地下鉄を待つ間にメールを確認する。先ほど店内で振動していたが、店員と話し中だったので見られなかったのだ。案の定、内容は、催促兼確認だった。 「そろそろ来られそうですか?」と言うそれに、今から向かう旨を返信すれば瞬く間に返事が返ってくる。 駅の改札まで迎えに出ると書いてある。いつもながらの、その文面が何だか妙に照れ臭い。毎度毎度、子供じゃあるまいし、と内心でそっと毒づいてみる。なのに、言葉とは裏腹に、だらしなく頬はニヤけてしまう。結局、嬉しくて仕方がないのだ。 地下鉄がスッと静かにホームに滑り込んでくる。慌てて弛んだ表情を引き締めながら、目の前の車両に乗り込んだ。三十路に突入した男が、公共の場で無意味にニタニタするのは、気味が悪いものだ。しかし、そんな自省とは裏腹に、弾むような嬉しさが、喉の奥からぐっ、とこみ上げてきてしまう。 (こんなにベタなタイプとは思わなかったな。暴君永木なんてあだ名、ウソみたい。職場とのギャップ、ありすぎだよな。でもなあ……そこが可愛いとこでもあるけどさ) ふ、と軽いため息を吐きつつ、利明は今頃自宅を出ているであろう、恋人の事を考える。 エリート官僚である永木と付き合い始めて、早くも三年が経過する。なのに彼の情熱的なアピールは未だ一向に、衰えを見せない。職場では傲慢そのもので、人を人とも思わぬ高飛車な振る舞いの多い彼のギャップに、最初は酷く驚いた。プライベートのベタ振りを知り、自分の方が恥ずかしくなって、むず痒いような気がした。しかし、今はすっかりそれにも、馴らされてしまった。 どころか……相手に感化されたのか……最近の自分は、惜しみなく与えられるそれを、もっと欲しいとすら願ってしまうのが、うすら寒い。 (つかさ。俺もいい加減、ベタだよね。感染っちゃったのかなあ、アイツのが。もう三十にもなったってのにさ……恥ずかし……) 自虐気味な事を思い浮かべても、酷く甘ったるいような、頭に霞がかかったような感覚は、簡単には失せてくれない。甘い気分に酔ったまま、車両に響く心地よい振動に身を任せる。そのまま、さっき見て来た新居候補の間取りや立地を、脳内で反芻した。 二人の間でとは言え、主には永木が提案していたに近い、引越しのついでに同居をしようと言う案は随分前から出ていた。移転先の場所は荻窪。これは永木のリクスエストだ。 霞ヶ関方面になら、中央線の始発駅で新宿から丸の内線に乗換え。高井戸や三鷹の勤務なら、自転車、バイクと言った交通手段が便利だろう。今の二人の勤め先は霞ヶ関である。だから直行便である日比谷線沿いの今の部屋から、わざわざ移転する必要は全く無かった。 しかしノンキャリ組の利明は、今後、高井戸や三鷹への配属が多いのは確実だ。今の課に配属されて既に、4年以上と言うのが最早、特例に近い。来年辺り、そろそろ異動なのは、間違いない。それに長らく遠ざかっている現場に配属されるのも、何となく予測がつく。ならば、荻窪は移転先としては、かなり有力な候補地だ。 その地名を永木から聞いた途端、利明は、確かに良い選択だ、と思った。しかし霞ヶ関への勤務が続くであろう永木が、今の場所から移転をする必要は何一つとして無い。地下鉄で直行の上に、たった4駅で到着する、便利な場所から引っ越そうと言う意味が解らない。彼には何のメリットも無い筈だ。 『荻窪だと、中央線の始発駅だけど、新宿で乗り換えだろ。その上に、南阿佐ヶ谷から新宿方面ってさ。そんな加齢臭ムンムンな路線、オレでもゴメンだよ? それ押してでも引越しって、亘の考えがオレには意味不明』 利明は自分の思いついた疑問を挙げて、永木に聞いてみた。 『確かにな。でも多少時間とか距離が離れても、帰りたいんだよ。地元方面に。俺、実家、吉祥寺じゃん?』 『なら吉祥寺で探せばいいじゃん。てか親元帰れるんならそうしたらいいんじゃない?』 『あっ、酷い! わざわざ同居しようってのに、そりゃないっしょ、酷いよ、傷つくなあ。ま、あれだよ。余り親元に近いと、やなの。でも、ちょっと離れた距離ってのがいいの』 『へえ……そんなもんかなあ』 『そうだよ。それこそ家からオカズだけかっぱらったりとか出来るけど、親には干渉させないってのが、いいんじゃん。新婚っぽくてさ』 最後の台詞には余り感心や同調が出来なかった。しかし確かに吉祥寺から荻窪までは2駅の差である。実家の近く、と言うのは永木にとって、大事なポイントでもあるらしい。 得意げに話すプランを聞くうち、吉祥寺でショッピングデートを画策している気配も、プンプンと匂った。案の定と言うか、ベタな奴め、と思ってしまう所以だ。 とは言え、永木のたっての希望ならば、利明としては有り難い。吉祥寺よりは、間取りが広くて安い部屋がある筈だ、と言う意見にも、同意できる。 『てか、それならそもそも何で恵比寿に来たんだよ』 そう尋ねてみると『だって、一人暮らしがしたかったんだもん』と、これも予測通りのお返事だった。大学を出た当初、知人の紹介で今のマンションに入ったらしい。今は勤め先が霞ヶ関だし、生活にも便利だ。 ただ、場所柄、家賃は似たような間取りの利明の部屋の倍に近い。 『場所も悪くないし、余り金銭的に負担ってのは感じないよ。けどやっぱさ……地元方面が、最近妙に恋しくなっちゃってさ』 そうボヤく彼に、利明は思わず肩を竦めた。 『いいけどさ……毎日今より一時間ぐらいは早起きしなきゃいけなくなるよ。誰かさんの寝起きぶりで、本当に大丈夫なのかな?』 軽くからかうと『そりゃー、トシが毎朝優しく起こしてくれなくちゃ』と返された。その会話の後に繰り広げられた痴態を思い出すと、未だに頬が赤くなる。 ともあれ、事あるごとに、一緒に住もう、部屋を探そう、荻窪が良い、と言う永木の呪文に近い言葉に、段々利明も感化されてしまった。毎日の刷り込みの繰り返しが如何に有効かと言う証だ。しかし、実際に異動の辞令が出てから考えたのでも遅くない、と、暫くは聞き流していたのだ。永木が県外の拠点に栄転しないとも限らないのだから。 しかしある日、何となく気が向いて、インターネットで賃貸情報を調べてみた。すると、まさしく荻窪に、適当なコーポがある。間取りもよさげだし、立地も申し分ない。早速、利明は不動産屋へ電話をして現地見学の予約を取り、部屋を見せて貰う事にした。実際に見ると、周りの施設や立地は勿論、住みやすそうな雰囲気だった。 男性同士の同居は嫌がられる事が多いのに、係員に聞けば、案外すんなりと了承が得られたのもラッキーだ。 自分にも便利で、永木の希望通りの場所に好物件を見つけられたのは、素直に嬉しい。その満足感を反芻し、再び頬を緩めた所に、車内のアナウンスが恵比寿への到着を告げた。 駅の改札を抜ければ、見慣れた長身が軽く片手を上げている。精悍な顔立ちが微笑の形に甘く綻ぶのを見た途端、ドクン、と胸が弾む。 ほぼ毎日見ている顔なのに……どうしてこんなに飽きないものか。こんなに惚れ込んでしまって、いっそ悔しさを覚えるほどだ。なのに、小走りに駆け寄ってしまうのは、矢張り好きになってしまった弱みと言うものだろうか。 不自然でない程度に軽く腰に触れる相手と肩を並べて、彼の部屋へと歩き出す。 「今日、滅茶苦茶寒かったな。用事、片付いた?」 永木の問いかけに、ああ、と軽く頷く。彼には今日の物件見学の話は、していない。 昼から半休を取って一旦自宅に帰り、その足で出かけていた。近くで、よく似た間取りを持つ物件も何軒か見せて貰った。しかし最初に見たコーポが、一番良かった。家賃が僅かに高めな為、すぐに決まる物件ではないらしい。 『この、家賃差がネックなんですよね。間取りもファミリー向けですから、中々簡単には。1ヶ月以内なら多分、まだ空いてますよ』 そう言って不動産屋の店員は苦笑していた。 当然、自分の独断のみの行動だから、荻窪に移転候補の物件を見に行くなんて、永木には告げていない。実際に現地に行ってから考えたかったし、結果がどうあれ、彼の部屋についてからの報告で充分だろうと思っていた。けれど、彼が良く口にしていた、まさに理想通りの部屋が見つかったと言う嬉しさは抑えがたい。 ついつい、我慢が出来ず、ぽろりと秘密の一端を漏らしてしまう。 「実はさ、そろそろ引越し考えようかって言ってただろ? それ見に行って来た。亘の言ってた荻窪でいいのがあってさ。駅にも近いし、間取りも2SDKで丁度いい感じで」 唐突な話に驚いたらしい永木はエントランスを潜った所で立ち止まり、目を大きく見開いて利明を見つめる。 その大きな瞳を見つめ返し、恥ずかしさを堪えながら、思い切って告げる。 「それとね、男同士の同居でもいいって」 語尾が寒さと緊張で妙に震えるのが恥ずかしい。少しの間を置いて永木が反応する。 「……えっ?! え、えぇっ?!」 頓狂なほどの声をあげている。自分の大声に驚いたらしく、慌てて永木は口を掌で塞ぎながら、軽く咳払いをして誤魔化している。 「ごめん。ビックリして……」 声を潜めながら、利明に軽く詫びると「とにかく続きは部屋で」と言いながら、幾分早足で部屋へと歩き出す。 途端に、今まで軽い雰囲気でかわしていた会話は、重い程の沈黙に変わった。共有部のシンとした廊下に二人の足音だけがコツコツと響く。その足音が利明の胸に重くのしかかってくる。 (ええっ? ……そんな驚かなくても。てか、オレ、ひょっとしてマズった? 調子のりすぎた?) ドキドキと、鼓動が今度は嫌な速さで高鳴り始める。永木がこんなに驚くとは思わなかった。 『なあ、いい加減同居しねえ? 時間あいたら一緒に部屋、探そうよ』 先週のいつだかも、ベッドの中で、しつこいほどにそう漏らしていたのに。 しかし自分が独断で動いたのは不味かったかもしれない。そう言えば永木は「一緒に探そう」と言っていたのだ。それを自分一人で独走してしまっては、気分を害するかもしれない。 余りの自分の浮かれぶりが歯がゆくて、苦々しい。思わずギュッと唇を噛みしめ、眉間に、きつく皺を寄せる。ぐるぐると脳内を、後悔が渦巻きはじめる。 (マズった。亘の性格なら独断はダメっしょ。モロ地雷だった。どうしよう。一人ではしゃいでバッカみたい、オレ。これ、絶対怒って……間違いなく呆れては、いるよな) 口を閉ざしたままの永木の表情を伺おうにも、既に部屋の前に到着してしまった。鍵が開き、つい、惰性で部屋の中へ、ノコノコとついて行く。ベッドの近くにある炬燵の上には暖かそうな鍋の準備が整っていた。置かれた肉のパッケージには、キジ鍋と書いてある。 その弾むような雰囲気のロゴすらも一向に利明の気分を引き立ててはくれない。その上に、何となく居心地が悪い。コートは脱いだものの、そのまま炬燵に入る気にはなれなかった。さっさと自分の定位置に腰を降ろしていた永木は、そんな利明を見咎めた。 「どしたの? 中、あったまってるよ、寒かったろう? 座って話、聞かせて?」 柔らかい口調でそう声をかけてくる。しかし、いつもと違うその態度が、益々利明の不安を掻き立てる。いつもの彼なら、さっさとビールなり酒なりを冷蔵庫から取り出し、まず一杯と言うのが……決まりきったパターンなのに。 そのパターンを無視して話を先行で聞こうと言うその態度が……酷く怖いものの予兆のようだ。先ほどから動揺の余り、鼓動が早まるどころか、段々息まで上がってくるのが、情けない。とは言え、このままさようなら、と帰る雰囲気でもない。 薦められるままコートを畳んで炬燵の側へと置くと、無言で腰を降ろし、足を入れた。炬燵の電気を点けっぱなしにしていたらしく、永木の言葉通り暖かい。 「……ごめん。勝手な事して」 俯き加減に、小さく呟くようにして、まずは謝った。 「えっ? えっ? ちょ、ちょっと。ちょっと何? 何で謝るの?」 驚いたような永木の声が耳に痛い。彼の顔がまともに見られない。余りに先走りすぎた自分の行動が恥ずかしい。 「だって……オレ……一人で勝手に独走してさ……」 「待って待って。ちょっとタンマ。トシ、ストップ! 独走なら今してるよ? 荻窪にいい物件あったんだろ? どしてそれで、ごめんな訳?」 泡を食った様子で言い募る永木に、利明は顔を上げ、目をパチパチと瞬いた。永木は本当にビックリした様子で、目も口も唖然としたように開けている。 「えっ? えーと……怒って……ないの?」 じっ、と永木の瞳を見つめながら、おずおずと聞いてみる。 「へっ? 何で怒るなんて思うんだよ? いい物件見つけてくれたんでしょ? 同居OKなら言う事ないじゃん。荻窪なんて本命だし最高だぜ。もうそれに決めようよ。しかしラッキーだな、それ。いつ引っ越す? てーか、よし、待って。こうなりゃ祝杯だ、祝杯」 永木は嬉しそうにソワソワとした動作で立ち上がる。まるで鼻歌でも歌いだしそうな勢いで、冷蔵庫からビールを取り出して、ドンドン、と勢いよくテーブルに並べた。 500ml入りのプルタブを開けてビールをコップに注ぐ様子は、どう見ても上機嫌そのものだ。良かった、と安堵し、利明は内心で胸を撫で下ろした。この様子なら間違いなく本心から喜んでくれている。 「よーし、じゃー、同居決定と新居発見にカンパーイ!」 グラスを互いに軽く交わせば、永木は瞬く間に杯を空にした。利明も軽く口を湿して台に自分のグラスを置き、永木のものにビールを注ぎ足してやる。 「サンキュ」 言いながら、永木がガスコンロに点火し、手際よく具材を入れていく。既にあらかた準備は整っていたらしく、すぐにフツフツと暖かい汁が煮え立ってくる。出汁と醤油の煮える芳香が、じんわりと部屋に広がった。 「ごめんな。勝手に独走しちゃってさ。余りにお誂え向きで理想どおりの上に、トントン拍子だったから、つい嬉しくって……」 もう一度謝ると、永木はふわっと笑みの形に目を撓ませた。 「同居考えてくれた上に、部屋までさっさと探して貰ってさ。怒る理由が無いじゃん。つーか、かーなり舞い上がるじゃん、フツーさ」 余りに当然のような口調で返されると、いっそこちらが恥ずかしくなってしまいそうだ。 「いや……オレこそ、舞い上がっちゃって……」 小さく呟けば、永木がぐい、と肩をつけるようにして身を寄せ、瞳を覗き込んでくる。 「……なあ。何でそんな舞い上がってくれた訳? 俺はいいよ。正直、マジに滅茶苦茶、嬉しい。でもトシは? 本当にムリしてない?」 意外な永木の質問に、利明はじっ、と彼の瞳を見つめた。どこか不安げな様子を隠せない漆黒の瞳が自分を見つめ返している。澄んだ水色の中に浮かぶ力強いその眼が、実はかなりお気に入りなのは内緒だった。 「そりゃオレだって好きな相手とは一緒に住みたいよ。ムリなんかする訳がない。それよりは不安の方が強いかな」 「不安?」 永木が小首を傾げるのに、コクンと頷き、ネガティブな意見だ、と思いつつも、言葉を続ける。 「だって毎日一緒に暮らす訳だろ? お互い良い日ばっかじゃないのは当たり前だし、飽きられちゃうんじゃないか、とかさ。そういう不安は、一杯あるよ」 口にしたら尚更暗いよな、と感じながらも、ぽつぽつ、と零したその台詞に、永木は無言で立ち上がる。そして利明の背中ごしに、ぎゅっ、と抱きついてきた。 「……なあ、トシ。今、初めて言ったね」 「え?」 永木のウットリとしたような囁きに首を傾げる。何か彼がウットリするほどの事を、今、自分は口走ったのだろうか? 全く解らない。 「最中でもなくて素面でさ。初めて……俺に解る様に好きな相手って。好きって言ってくれたね……嬉しい」 返ってきた言葉にハッとする。 「あ、あれっ? えっ? オレ本当に一度も言ってなかったっけ……、え、本当に?」 思わず呆然としながら呟くと、思い切り「ウン、言ってない」と背中越しに力強く肯定され、ご丁寧にブンブンと何度も頷かれた。 まさに後頭部を殴られたかのような衝撃が利明を襲う。 痛恨の極みだ。思わずグッと奥歯を噛み締める。これは、独断でアパートを見る以前の問題ではないだろうか。申し訳の無さに身の置き所がない、とは、この事だ。背筋を伝う冷や汗を感じながら、そう思う。 そして少しずつ記憶の糸を手繰っていく。永木は自分に、好き、と言う言葉を何度もかけてくれていた。それに頷きはしても……返した記憶は確かに、無い。どんなに考えても記憶に無いのだ。なのに、一度も言っていないとは、自覚していなかった。 恋人同士ならば大切な筈の、たった二文字のその単語。永木からは溢れるほどに与えて貰った、気持ちを現すその言葉。 三年もの間、その大事な言葉を、永木に一度も、告げていなかっただなんて……。その衝撃がグワングワンと脳裏に重く響き渡ってくる。 行為の最中にうわ言の様に何度も漏らした事は……ある筈だ。それは永木の証言とも一致する。 「ご、ごめん……、オレ、それ、最低だな……」 もうこれは、謝罪しかあるまい。その言葉しか口からは出てこない。 「いや……いいけどね、別に。今言ってくれたし」 苦笑交じりにそう返されて、利明はガックリと両肩を落とした。 確かに始まりは永木の一方的な告白からだった。当時自分には想っている相手がいて……でも到底叶わぬ相手だった。永木は利明のその気持ちに、気付いていたらしい。 それを知りながら、相手と結婚相手との橋渡し役を永木が受け持った。失恋を決定づけた、そのエピソードを永木の口から聞いた時には、僅かに殺意すら憶えた。幾ら自分を好きだと言ってくれても、何故そんな余計な事を、と、恨めしくて堪らなかった。 彼の告白に、せめて肉体的な飢えを紛らわせられる相手としてなら……セフレなら構わないと。そんな酷い言葉を利明は返した。すると、それでもいいと。あっけないほどの返事が返ってきた。永木のその縋るような言葉に甘え、酷い態度から始まった付き合いだった。なのに、気持ちの繋がらない筈の身体の相性だけは、最高だった。 プライドの決して低くない永木の事だ。苦しい事もあっただろうに、彼なりの誠意を出し惜しみせず、自分を口説き続けてくれた。 そんな相手の情熱と誠意に絆されるのはアッと言う間だった。 セックスの合間に囁き続けられる蜜のような言葉は確実に、利明の心にもじわじわと沁みていった。身体から篭絡され、次第に気持ちが溶けた。そんな自分を認めるのは辛かった。余りに軽々しい心変わりに気が引けて、微かに覚え始めた永木への好意を認められずにいた頃。彼に率直に求愛をする女性の言葉を、耳にした。 途端、激しいほどの嫉妬を覚えた。当然、利明は生粋のゲイであるから、永木に対しての嫉妬ではない。初めて気付いた彼への執着と、僅かずつ、育ち始めた恋情。明らかな自分の感情の変質を、認めざるを得なかった。 そして今は、永木と言う男が自分の日常に、すっかり無くてはならない、大事な存在にまでなっている。なのに、その大事な相手に、好きだとすら、言っていなかっただなんて、最悪だ。それに気付きもしなかった自分の傲慢さが恥ずかしくて、情けない。 どんなに不安にさせた事だろう。いつまで経っても出ない言葉に、苛々した事だってあっただろう。なのにそれを告げていない事に気付きすらせず、もっともっとと相手の気持ちを求め続けている、余りに貪欲な自分。恋人に申し訳なくて、本当に居たたまれない。 「……ごめんな、亘。本当に何べん謝ってもどうしようもないかもだけど、ごめん」 抱きついた腕をやんわりと外し、永木の方を振り返りながら謝れば、その力強い筈の瞳が僅かに潤んでいる。もの言いたげなその瞳の意志は、言葉がなくとも解る。炬燵から出ると、永木と向かい合うように座り直し、利明はハッキリともう一度、気持ちを口にした。 「改めて言うね。亘の事、好きだよ。ちょっとおかしいかもって思うぐらい、好きだ。今まで言ってないとは気付かなかった。長い間待たせて、本当に遅くなって、ごめんなさい」 そっと頬に掌をあて、瞳を見つめながらもう一度、浮かされたように、好きだよ、と呟いていれば、ゆっくりと永木が覆い被さってくる。 柔らかく触れた口付けは瞬く間に深くなり、荒々しいほどの勢いで喉の奥までを舐めしゃぶられる。求められ、求め返す内に着衣は乱され、永木の暖かい指先が自分の胸の敏感な飾りを摘み、クリクリと揉みこんできた。 「っ……あっ……ん」 甘い感触に、微かな喘ぎを漏らす。 「何か鍋より先に、別のもんであったまりたくなっちゃったな……」 耳元に蕩けそうな声で淫靡な台詞を囁かれる。 「……っ、いいっ……けど……」 早くも勃ち上がりつつある乳首をピン、と爪の先で弾かれ、ネットリと弱い耳の外側を舐られたら、拒める訳がない。自分がどんな愛撫に弱いのか、恋人は既に知り尽くしている。早くも蕩け始めた身体を、どうにかして欲しいのは利明も同様だ。 そっと身を離し、永木がガスコンロの火を消そうとした途端だった。 ぐーっ、きゅるきゅるるーっ、ぐぐーっ! 異音が部屋に響き渡る。 音の主は利明の腹の虫だった。余りの空腹に耐えかねたのだろう。主人の意志を裏切り、まずはこちらを満たせと激しく主張をしてしまったようだ。 永木の目が大きく見開かれ、パチパチとせわしなく瞬いて、利明を見詰めている。 「……っ、ご、ごめ……ごめん! ごめんなさい。ひ……昼食べてなかったか……ら」 カーッと物凄い勢いで一気に顔に血が昇ってくる。血流が凄まじくて、耳がジンジンと痛いほどだ。こんなに痛いのだから、きっと、赤いのを通り越して赤黒くなっているに違いない。半分ボタンの外れたシャツを掴み、ノタノタと身を起こしながら、利明は必死に謝った。 今までも多少、生理現象による不具合はあった。しかし本日のこの腹の虫の反逆は余りに……強烈だった。必死に顔を逸らしながら、乱れた着衣を整える。まさに本能丸出しの自分が、余りに恥ずかしくて、永木の顔を見られない。目には僅かに涙すら浮かんできてしまう。何て情けない一日だろう。 「ふ、ふふふっ、ふっ、あは、あははは、そう、昼ヌキで探してくれたのか。そりゃ腹減るって、あっははは……」 永木はくっくっと身体をゆすり、可笑しそうに笑いながら、伸ばした手でポンポンと利明の肩を軽く叩き、言外に慰めてくれた。空いた手で再びガスコンロに火を点けたらしく、カチン、ゴーッと言う音が聞こえ、鍋がクツクツと音を立て始める。 隣に座り直した永木が、そっと掌を利明に伸ばしてくる。それに甘えるように身体を近づけ、そっと身体の右側を密着させて、凭れかかる。左腕で抱きこまれ、耳と頬に、チュッ、チュッと可憐な音を立てて、慰めるような口付けを落とされた。 「昼ヌキでまで探してくれるなんて、感激だよ。さ。食おうぜ。まず胃袋満足させてから……さっきの続き、たっぷりしよ? な?」 恋人は蕩けそうに甘い声で色っぽい台詞を漏らす。そしてそっ、と利明の顔を覗きこむようにしながら、チュッと唇を啄ばんだ。 「かえすがえす……ごめんなさい……申し訳ない」 一向にひかない赤面に困惑しながら、ようやく上目遣いに永木の瞳を覗き込めば、いつものヤンチャっぽい悪戯な表情ではなかった。 それこそ蕩けてしまいそうな、甘い笑顔を頬に滲ませている。そんな甘い表情を見た途端に納まりかけた赤面が、再び頬を染めていく。そっと抱き寄せられた恋人の胴に両腕を回し、それでも羞恥の火照りは中々消えそうもない。 「とんでもない。こちらこそ、ふつつか者ですが。末永く宜しく」 額をかきわけるようにして、熱の篭る頬をそっと掌で撫で下ろしながら、とんでもない台詞を零される。その言葉に思わず利明も噴き出してしまった。 「……こちらこそ。末永く……よろしく」 ふわり、と笑みの形に緩んだ瞳を見つめながら、利明は永木の耳にそっと唇を近づける。軽くその耳朶にチュッとキスを送ってから、思い切って囁いた。 「……愛してる」 アフターバレンタインの金曜夜20時。 恋人達の部屋には、土鍋からクツクツと煮立つ暖かい香りが、平穏に満ちて行くのであった。
実験素材にしてすみません。リライト前&後を宜しければお楽しみ下さい。
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